史跡探索
広島市から車で、 クレアラインで呉まで走り、広を抜けて、野呂山へと登ります。 標高839mの野呂山です。 弘法大師ゆかりの野呂山弘法寺には、 参道で狭い道ですけど車で登ってこれます。 「西之 高野山」「野呂山 弘法寺」 ここで、標高755mです。 地上と違…
先日、6月15日は弘法大師のお誕生日でした。 もちろん、私は仕事でした。 昨日の土曜日まで仕事でしたので、 今日、野呂山にあります弘法大師ゆかりのお寺「弘法寺」を訪ねました。 野呂山は標高839mの山です。 実を言いますと、今日は、心が満たされすぎて…
6月4日、広島城に満月です。 6月の満月は、今月6月21日の夏至に近い満月で1年で最も低い軌道を通り赤く見える月です。 アメリカの先住民にはストロベリームーンと呼ばれています。 アストラムラインの城北駅で電車を降りて、地下からエスカレーターで…
高松山、ゆっくりと登り始めておよそ1時間半、頂上に辿り着きました。 三角点です。 高松城跡です。 細長く広がっていて、りっぱな館が建っていたと想像できます。 縁を覗いて見ますと登山道以外はものすごい斜面で、とても強固ななかなか攻め落とせる山城で…
広島市安佐北区可部の国道183号線、191号別れ交差点から見ます高松山です。 根の谷川を渡り、 登山道入口の看板より 5分ほど歩き、鳥居を潜り高松神社、高松山頂上高松城跡を目指します。 谷筋ルートと尾根筋ルートがあり、 谷筋ルートは危険とあり、右折し…
最上稲荷の帰り、備中高松より東へ迂回して、 第七代考霊天皇の皇子、大吉備津彦命が吉備の国に下られ、蛮行を重ねていました温羅(うら)一族を平定したと伝えられています 三備一宮、吉備津神社に立ち寄って帰りました。 (三備とは、備前、備中、備後の三つ…
最上稲荷お詣りから、お腹空いてきました。 備中高松で食べた 「筑豊ラーメン山小屋」のラーメンです。 秀吉の備中高松城水攻めの地で、筑豊ラーメンです。 それが、とてもおいしかったんです。 食べ終わり外へ出ますとずっと曇りでしたのに、すごく雨が降っ…
広島市南区稲荷町の稲生神社のお守りぎつねです。 1733年(亨保18年)、神社周辺4町で大火災発生するが神社は火災から免れたそうです。 この時、白狐より町の千穏と五穀豊穣、商売繁盛を願い安住したいというお告げがあり鎮守されたと言い伝えられています。 …
広島市安佐北区可部の福王寺は、金亀山福王寺といいます。 池に棲む金の亀が水中から浮かび上がって弘法大師空海に礼拝したことから金亀山といいます。 今回、火渡り祭に来させてもらって、 素焼きの亀のおみくじを引きました。 我が家のキャビネットの上、…
今週のお題「お花見」 比治山公園の現代美術館からさらに進みますと彫刻の小道と表された脇道があります。 彫刻の像がほんの僅かにあり上っていきますと美術館脇まできます。 美術館脇からは小道を下っていきます。 下ってきた小道を振り返ってみますと、と…
今週のお題「お花見」 比治山の御便殿跡です。 お花見によく来たところです。 桜の木の下でシートをひいてお花見する光景は今も昔も同じですね。 ただ違うのは、 私が子供の頃は、御便殿跡の基礎部分が残っていて、 私の記憶では、子供の背丈より高くて四方…
広島基町クレド、パセーラ前ふれあい広場です。 この一帯は、広島城大手郭(外郭)跡です。 説明板には、 広島城は、安土桃山時代に中国地方一帯を領していた毛利輝元が、瀬戸内海へと流れ込む太田川の三角州に築いた平城です。 天正17年(1589年)に築城が開始…
広島市城南通りの歩道から見た広島グリーンアリーナです。 携帯の地図アプリでは、ちょうど私が立っていますこの位置が「広島城三の丸稲荷社跡」となっています。 この日は、コンサートですか? アリーナの周りには若い人達が多く集まっておられました。 み…
広島市城南通りを挟んで、南側に広島グリーンアリーナこと広島県立総合体育館があります。 地下道を通って体育館方面に上がってきて、 外気に触れると同時に広島城の石積みに出会えます。 思わず石垣に寄りかかりたくなります。 広島県立総合体育館建設工事…
広島城のお堀は、常にお堀の水を浄化させるために、本川から取水しています。 本川から取水した水を公園の中を暗渠となって通ってお堀を一周して、また本川へ流れていってます。 空鞘橋西詰から渡りまして、ちょうど渡り終わる頃に、お堀を一周した水が吐き…
広島市寺町から本川の河川敷の遊歩道を歩いて行きますと、 空鞘橋(そらざやばし)があります。 川上から見ました空鞘橋です。 東へ渡りますと城南通りへと繋がって広島駅前、比治山通り、段原を経て国道2号線、さらに進み宇品で広島南道路へと繋がっています…
3月18日から、彼岸の入です。 19日、ウォーキングを兼ねて、 寺町と大手町のお墓参りに行ってきました。 バス停でバスを降りて国道54号線から寺町に入りますと、 建設中のサッカースタジアムが真っ正面に見えてきます。 本川を挟んで、広島城の西の防…
広島市安佐南区祇園、県道277号線とJR可部線の間に住宅街の中に、安藝津彦神社があります。 御祭神は、安芸津彦神、安芸津姫神です。 御由緒書きには、 昔は青原に鎮座し給い本祭神は阿岐国造饒速玉の御祖先であり厳島神社の兼帯七社の一つであって 明治5年(…
神武天皇が、当地の者に「曽は誰そ」とお尋ねになられました。 そのことから、広島県府中町のこの森のことを「誰曽廼森(たれそのもり)」といいます。 現在の多家神社(安芸郡府中町)は、「誰曽廼森」に、鎮座されています。 多祁理宮あるいは埃宮に神武天皇の…
広島県安芸郡府中町の多家神社(埃宮)には、 「神武天皇東征御留蹕霊地」といった碑が建っています。 神武天皇が、東征の時、安芸津彦命の案内で火山(ひやま)に登られ、天皇の存在を知らせる烽火(のろし)をあげられ、山を下りられ、山本(広島市安佐南区)から…
広島市の東部に隣接します安芸郡府中町の多家神社には、 広島城三の丸稲荷社の社殿が、明治7年(1874年)移築されています。 校倉造りです。 宮司さんともお話が出来て、 説明板にも書いてありますように、 一般的な校倉造りは、三角形に近い五角形の校木で組…
広島市中区本川町の空鞘稲生神社の境内にあります「幸神社(こうじんじゃ)」です。 御祭神は、猿田彦大神です。 御由緒は、天文年間(1532年頃)の創建で「彦山明神」と称していましたが明治4年「幸神社」と改称したとあります。 天文年間は、広島城が天正17年(…
広島市中区本川町にあります空鞘稲生神社の 注連石を潜りますと原爆クスノキがあります。 このクスノキは、 昭和20年8月6日、広島に原爆が投下され、 焼け野原になりました爆心地近くの元安川左岸に被爆直後芽吹いたクスノキです。 被爆焼死したクスノキ…
広島市城南通りの空鞘橋西詰めから見ましたサッカースタジアム建設現場です。 スタンドの骨組みが出来ていました。 広島城の西側で中央公園に建設されています。 建設にあたって、 埋設物文化財発掘調査が行われ、 旧陸軍施設の被爆遺構が発掘されさらにその…
3年ぶりに開催されました緑井毘沙門天初寅大祭、2月4日よごろ、 (よごろとは、広島弁でお祭りの前の晩のことを指します。) 仁王門から登ってきまして、本殿からいよいよ虎穴をとおって、多宝塔へ向かいます。 岩盤を切り開いた道は、手摺りがありますの…
コロナ渦で中止になっていました広島市安佐南区緑井の権現山毘沙門天堂での緑井毘沙門天初寅大祭、3年ぶりに開催されました。 旧暦の初めての寅の日に近い土日に開かれます。 今年は、2月4日と5日です。 4日は、たまたま立春と重なりました。 こんなめ…
広島市中区中町の顕本法華宗単立寺院 光瓊山本照寺に在ります 東京軍事裁判インド代表判事 パール博士筆慰霊碑です。 「大亜細亜悲願之碑」には、 激動し変轉する歴史の流れの中に 道一筋につらなる幾多の人達が 万斛(ばんこく)の思を抱いて、死んでいった …
広島市中区中町にあります単立(顕本法華宗)光瓊山本照寺です。 平和大通りを挟んで南側にあります。 御朱印を頂きましたときお話を聞きましたところ、関ヶ原の戦い以降にこちらに創建されましたと言われました。 福島正則の家臣がこの地に創建されたとも言わ…
広島多聞院の境内の中にあります「廣島郵便局原爆殉職者之碑」です。 当時昭和20年8月6日までは、廣島郵便局庁舎は、爆心地の島病院の道路向いにありました。 朝、8時15分いつものようにその日がスタートするはずでしたでしょう。 一瞬にして、灰になり炭…
多門院には、頼家(らいけ)の墓があります。 頼家は、江戸時代後期に「日本外史」を著しました頼山陽をはじめ多くの学者が出しました学問の家です。 頼山陽の両親、頼春水、梅颸(ばいし)をはじめ他に、大小30以上のお墓が並んでいます。 頼山陽のお墓は、京…