広島歴史探索家
邇保姫神社から臨む黄金山です。 黄金山は、「おうごんざん」と読みます。 かつては邇保姫神社から黄金山をぐるっと一つの広島湾に浮かぶ島、仁保島でした。 江戸時代に埋め立てられ広島市と陸続きになりました。 いつ頃から黄金山と呼ぶようになったのかし…
広島市鯉城通り、 旧日本銀行広島支店です。 爆心地から380m、現存します被爆建物です。 ビル街の中でも、どの高層ビルにも負けていません。 堂々と建っています。 実は、 私ごとですけど、健康診断の帰り道で空腹のあまりふらふらしながら通っています。 し…
広島市安佐南区山本の平山八幡神社の枝垂れ桜です。 枝垂れ桜なので、今年はどうだろうって思ってきてみましたけど、 満開は過ぎてましたけど、まだ間に合いました。 平山八幡神社は、武田氏が滅んだのち大内義隆が社殿を創建し、 本殿の屋根の上には、 毛利…
安神社の「祗園坊柿」実っています。 福島正則公もおいしいと言った祗園坊柿です。 ランキング参加中雑談 ランキング参加中地域 ランキング参加中歴史 sobanikutama.hatenablog.jp sobanikutama.hatenablog.jp sobanikutama.hatenablog.jp sobanikutama.hate…
広島市安佐南区古市の久保山神社の恵美須社です。 御祭神は、事代主命です。 中連柱には、 「一竿還天下」 「百福潤衆民」 と書かれています。とても読みやすいです。 そして、 案内して下さっています方から、えべっさん見られました? と聞かれ、案内して…
広島市安佐南区古市にあります久保山神社です。 10月7日はお祭りの「よごろ」です。 夜神楽の舞いがあるそうです。 8日は本祭です。 「よごろ」と言いますと、どうやら広島弁らしくお祭りの前夜祭のことです。 7日のお昼前、立ち寄りますと地元の人達が準備…
広島城お堀の回りを東の裏御門から散策して、いよいよ西側です。 江戸時代には、武家屋敷が並び、明治から第二次世界大戦終了まで陸軍施設がたくさんならんでいました。 今は、国道54号線が北へ真っ直ぐ延びています。 その54号線と城南通りに先月一夜にして…
広島城お堀北側を歩ききりますと、 軍馬之碑があります。 第2次世界大戦までは、軍馬は飼われていました。 歴史ドラマみても馬は必ず出てきます。 馬も戦地に駆り出され随分犠牲になっていることでしょう。 そして、広島城周辺の陸軍施設の中に飼われていた…
広島城をぐるりとお堀が囲んでいます。 城北の緑地地帯は、市民の憩いの場でもあり、通勤、通学の路でもあります。 そんな中、何ももの申さずと言いましょうか、頭の部分が割れた石碑があります。 誰も足を止めるでもなく、気が付いても通り過ぎてしまいそう…
楓樹(ふうのき)です。 カエデです。 広島城散策してましたら、とても大事そうに植えてあります。 この「楓樹」の由来は、 読んでみますと、 「楓樹」はもともと日本には自生せず、中国・台湾が原産地である。 中国では宮殿(天子の住まいの屋敷)内にのみ植えら…
爆心地から約980メートル、 1945年11月頃、米軍が撮影しました広島城です。 ここには、 毛利輝元が1589(天正17)年に築城を始めて以来350余年、広島の歴史とともに歩んできた広島城は、 1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、原爆の一閃により五層楼の天守閣も跡…
広島城の東側に位置します裏御門からお堀に沿って左回りで歩いて行きますと、 お堀の突き当たりに、 広島陸軍幼年学校跡の門柱が残っています。 これよりさらに左にお堀に沿って城北にあたります。 説明板があり、またその先に樹木に隠れるようにもう一つ石…
広島城二の丸から土橋を渡りますと中御門跡です。 お城らしく行く手が鈎になっていて石垣に囲まれます。 少し空気が変わります。 400年以上の歴史を感じるも、石垣が赤さびたように赤く変色しています。 昭和20年、原子爆弾によって、中御門は焼失し石も焼け…
昨日の日曜日、広島城一周散歩です。 広島城御門橋を渡り、 表御門を潜り、二の丸から振り返りますと、 外観ほぼ出来上がっています建設中のサッカースタジアムがこんなにしっかり見えます。 そしてさらに進みまして、 本丸の南側にあります堀に囲まれた二の…
広島城歩兵第11聯隊跡には、 その略歴が記された碑があります。 歩兵第十一聯隊略歴 一、 明治八年五月広島の地に創設 同年九月九日聯隊旗受領 二、 明治九年十月萩の乱に出動 三、 明治十年西南戦争に出動 四、 明治二十七年日清戦争に出動、 朝鮮、中国…
広島城にあります歩兵第11聯隊跡に、戦前の配置図があります。 昭和12年頃の歩兵第十一聯隊兵営配置図です。 広島城裏御門があり、現在は、護国神社の大鳥居があり、中国放送(RCC)があり、合同庁舎等があります。 まるで違う町のようです。 ランキング参…
広島城東側、池田勇人の銅像からわずか南に歩きますと、 歩兵第11聯隊の門柱があります。 歩兵第11聯隊跡です。 門柱を潜りますと、柱に由来が書かれていました。 そこには、 歩兵第11聯隊入口正門として建っていた門柱で長年月にわたり入隊訓練出兵帰…
今日は、8月最後の日曜日です。 今は夏休みの形態も変わって学校は始まっているのでしょうか? それともまでですかね。 私たちの頃は、31日まで夏休みでそろそろ夏休みの宿題に追われている頃です。 7月の写真からまるでやり残した宿題みたいに先日から横川…
横川新橋から、横川橋のすぐ東側に 横川胡子神社があります。 御祭神は事代主神です。 えべっさんが鎮座されています。 天満川の対岸の南側は寺町です。 安永8年(1779年)己亥正月廿日、楠木村横川町の住人谷門二が町民の安栄を祈願して御神像を作りこれを祀…
横川橋おかえり観音さまです。 横川橋北詰の袂におられます。 横川の名前の由縁となりました東西に流れる天満川沿いにおられます。 この観音さまは、 元々広島市楠木町1丁目でお祀りされていた物だそうです。 説明板を読みますと、 楠木町1丁目に小さな大師…
広島市横川新橋を東へ進みますと天満川上流に架かる横川橋があります。 江戸時代整備されました雲石街道に架かる橋です。 少しばかり、東へ歩きますと本川へと出ます。 南北に流れます広島の川も、本川から分かれました天満川は、横川新橋まで東西に流れます…
比治山公園陸軍墓地から広島南区を見渡しますと広島湾が臨めます。 そして、旧広島陸軍被服支廠倉庫の全容が見えます。 上からハッキリ見えてます旧広島陸軍被服支廠を見ながら友だちに、 ここを下りたらあそこに行きましょうと言いました。 車窓からでも何…
比治山公園内に架かります橋、 雲霓橋です。 うんげいきょうと読みます。 ちょうど南側と北側を分断するが如く谷間になっていますところに架かっています。 車で上がりますと橋の下を潜って駐車場に停めます。 子供の頃、お花見では谷間の道路にはお花見のぼ…
「鶯の 口のさきなり 三萬戸」 比治山公園で読みました正岡子規の句です。 公園の中に子規の句の碑があります。 1895年(明治28年)3月3日、正岡子規は日清戦争の従軍記者として東京を発ちます。 そして、ここ広島でおよそ1ヶ月過ごします。 比治山公園の中に…
比治山公園陸軍墓地の近くにひっそりと、 大和神社(おおやまとじんじゃ)の碑があります。 皇紀二千六百年記念 昭和十五年十一月十日建立 とあります。 そして陸軍何某と薄い字で彫られています。 これは何でしょう? ここにお社があった感じはないです。 原…
広島市南区比治山公園の陸軍軍人の墓地を進んでいきますと、 日清戦争の軍人の墓碑の先には、 海の見えますとても美しいところに、フランス兵士の墓があります。 1900年(明治33年)、中国における義和団の乱鎮圧(北清事変)の際、フランス傷病兵120余名が広島…
比治山公園にあります陸軍墓地です。 放影研の先にあります。 子供の頃から何度ともなく登りました比治山ですけど、 陸軍墓地を訪ねるのは初めてです。 バラバラになっていたお墓をまとめたのでしょうか? 左右には、陸軍軍人合葬之墓とあり、都道府県別に全…
放影研の敷地の中にありますABCCと書かれています浄化槽マンホールの蓋です。 1950年(昭和25年)作成されました浄化槽マンホールの蓋の設計図の青写真です。 TAKENAKA KOMUTEN CO.LTD HIROSHIMA BRANCH (竹中工務店広島支店) とあります。 鋳物ですかね…
比治山ホールのテラスから臨む放影研です。 放影研の前は、ABCCと言っていました。 1947年(昭和22年)3月に原爆傷害調査委員会(ABCC)は開設しています。 日本がまだ占領下の時にできています。 当時の広島市民の感情からしたら、原爆を投下しておい…
8月5日、友だちに誘われて比治山ホール見学会に行ってきました。 彼女が何もかも手続きしてくれて、 抽選に当たったよって連絡を届いて、抽選なの?なんて軽く捕らえていましたら、 午前と午後の2回それぞれ20名ずつの募集に300名もの応募があったそうです。…