広島市中区中町の顕本法華宗単立寺院 光瓊山本照寺に在ります
東京軍事裁判インド代表判事 パール博士筆慰霊碑です。
「大亜細亜悲願之碑」には、
激動し変轉する歴史の流れの中に
道一筋につらなる幾多の人達が
万斛(ばんこく)の思を抱いて、死んでいった
しかし
大地深く打ちこまれた
悲願は消えない
と記されています。
そして、
パール博士筆によるベンガル語で書かれています詩文が刻まれています。
日本語訳と英訳も同時に石碑に刻まれています。
抑壓されたアジアの解放のため
その嚴粛なる誓にいのち捧げた
魂の上に幸あれ
ああ 眞理よ
あなたは我が心の中に在る
その啓示に從って我は進む
1952年11月5日
ラグビノート・パール
(日本語訳による詩文)
この碑にはさらに、
ベンガル語の慰霊詩文は、
東京軍事裁判でただ一人真理と国際法に基づき日本の無罪を主張し原爆投下の非人道性を指摘したインド代表判事パール博士が、昭和27年の秋来広の際、其の碑建立の趣旨に共感し半日瞑想推敲して揮毫(きごう)されたものです。
アジアの民族運動と戦禍にたおれた満蒙華印等動乱大陸の多くの人々の面影偲び浄石にその名記し石窟内に奉安 有志恒友相倚り碑を建立した。
慰霊の式典をかさねること三十三回、昭和43年5月、恒友協力浄域を整え再建す。
日文源田松三筆 英訳文エ・エム・ナイル 碑銘大亜細亜は宮島詠士先生遺墨に依る
と記されています。
さらに、
碑の傍らの石碑には、
果敢な反英実力闘争を経て、日本に亡命したインド独立運動志士ラス・ビハリ・ボース氏に信任されていたことを同行のA・M・ナイル氏から聞かされたパール博士は、筆者に親近感を持たれ慰霊碑文執筆を快諾された。
英文中のLORDを真理としたのはマハトマ・ガンディの真理の把持による
本照寺再興住職 筧義章
と記されています。