今週のお題「お花見」
比治山の御便殿跡です。
お花見によく来たところです。
桜の木の下でシートをひいてお花見する光景は今も昔も同じですね。
ただ違うのは、
私が子供の頃は、御便殿跡の基礎部分が残っていて、
私の記憶では、子供の背丈より高くて四方に階段があって、今思えば明治天皇の御休憩されるに相応しいりっぱな基礎だったと思います。
それが、
確か、2番目の子供がやっと歩き始めた頃ですから、上の子供が3才、2番目の子が1才くらいですかね。
(もう随分昔の話しです。昭和60年頃の話しです)
遊ばせてあげようと思って来ましたところ基礎が壊されて更地になっていたのを見てとてもショックを受けた記憶があります。
先日行った時の写真でもわかりますように、何も残っていないです。
広島市の説明板によりますと、
日清戦争が始まると、広島に大本営が置かれ、臨時帝国議会が招集されました。
その際、仮議事堂とともに、明治天皇の休憩所である御便殿が西練兵場内(現在の中区基町)に建設されました。
その後、仮議事堂は解体されましたが、御便殿は広島市が譲り受け、比治山公園の北側を広場として造成し、1909年(明治42年)に移築されました。
御便殿が移築された比治山公園は、桜の季節には花見客でにぎわい、比治山といえば御便殿といわれるほどになりました。
1945年8月6日、爆心地から約2㎞の距離に位置していた御便殿は、原爆で倒壊し、現在は石灯籠だけがやや位置を変えて残るのみですが、広場は現在も市民の憩いの場として親しまれています。
と、あります。
原爆により建物は倒壊しましたが基礎部分だけは残りましたとは一言も書いてないです。
子供でしたから、御便殿跡とは何かと疑問にも思わず「ごべんでんあと」と音できいた言葉でただそう言っていました。
御便殿跡といえば、私の中ではあの基礎部分も含めてのものだったんですけどね。
出来ることなら、更地にせず残してもらえてたらと思うと残念ですね。
ずっと、そんな思いでいたのですけど、今回訪ねましてよかったことで、
説明板にも写っています、注連柱が残っています。
これは、記憶になかったです。
向かって、左の柱には、
「興日月合其明」
右の柱には、
「興天地合其徳」
と書かれています。
「日と月が合えばそれ明が興る」
「天と地が合えばそれ徳が興る」
と、読むんですかね。
向かって左の柱の裏には、
「即位大典記念」と
向かって右の柱の裏には、
「從一位勲一等 侯爵浅野長勲書」
「廣島市播磨屋町民建之」
「昭和三年十一月二日 正八位勲八等 石田久雄識」
とあります。
昭和天皇が即位されたとき建立されたもので、
浅野長勲公が書かれたものです。
浅野の殿様が書かれたものでした。
しみじみ見ますに、とてもよい言葉ですね。
明日への希望がもてる言葉ですね。