今週のお題「お花見」
比治山公園の現代美術館からさらに進みますと彫刻の小道と表された脇道があります。
彫刻の像がほんの僅かにあり上っていきますと美術館脇まできます。
美術館脇からは小道を下っていきます。
下ってきた小道を振り返ってみますと、とても静寂で広場では花見で賑わっているのが嘘みたいです。
小道を降りていきますと、
加藤友三郎の銅像台座に遭遇します。
台座のすぐ下は車道です。小道を遠回りしなくても行けます。
台座には、「元帥海軍大将大勲位子爵加藤友三郎」と刻まれています。
見上げるほどのりっぱな台座です。
説明板を読みますと、
加藤友三郎は海軍軍人で、海軍次官、海軍大臣などを務め、大正10年ワシントンで開催された「海軍軍縮会議」にわが国の首席全権として出席し、米英の提案による海軍軍縮案に承諾しました。
大正11年6月、軍縮推進の最適任者として推挙され第21代内閣総理大臣に就任し、海軍の軍縮のみならずシベリアへの陸軍派兵を引き揚げたほか、軍事費の増強で破綻寸前となっていたわが国財政の立て直しに尽力し、文教民生面の充実に配慮した政策をすすめました。
しかし、総理大臣在任中に病に倒れ大正12年8月に逝去されました。
と、書いてあります。
さらに、読んでいきますと、
この像は、昭和10年11月に完成しています。
第一次世界大戦ののち世界中が軍縮の気運でしたけど、
やがて第2次世界大戦へと押し進んでいます最中の昭和10年に完成しています。
掲示板には、
昭和9年、当時のわが国の置かれている国際的な立場は、軍部の政治介入への強化、中国への進出、国際連盟の脱退などで孤立化の傾向にあり、加藤友三郎がすすめた各国との協調による平和の推進に離反した方向にすすみつつあったのです。
このような不穏な情勢の中で、今一度加藤友三郎の意思を天下に周知させるために、広島財界有志の発起銅像の建立が企画され、内外から大勢の協賛を得て、昭和10年11月にその完成をみたのです。
と、あります。
しかし、私たちが知っていますように、その後、戦争へと進んでいきました。
第2次世界大戦の最中、加藤友三郎の像と碑文は金属類として軍に供給され今の姿となっています。
掲示板には、
「皇国ヲ万代ノ泰キニ護ランコトヲ」の願いも虚しく、わが国は焦土と化して敗戦を迎え、加藤友三郎らによって培われた帝国海軍の伝統も白日夢の如く霧散してしまったのです。
とも、書いています。
今の世の中、この時代のように進んでいかないことを願いますね。
加藤友三郎が病に倒れ、時代は移り今がありますね。
(掲示板に書かれています文章を一部引用しています)