神武天皇が、当地の者に「曽は誰そ」とお尋ねになられました。
そのことから、広島県府中町のこの森のことを「誰曽廼森(たれそのもり)」といいます。
現在の多家神社(安芸郡府中町)は、「誰曽廼森」に、鎮座されています。
多祁理宮あるいは埃宮に神武天皇の皇居がありのちに多家神社となりました。
平安時代になりますと、「延喜式」に安芸国の名神大社三社に伊都岐島神社(厳島神社)、速谷神社とともに大社と崇められました。
中世になりますと武士の抗争により衰退し、江戸時代には南氏子(松崎八幡宮)と北氏子(総社)とで多家神ないし埃宮をお互い主張して論争が絶えなかったそうです。
明治6年に、松崎八幡宮と総社を合わせて「誰曽廼森」に広島城三の丸稲荷社の社殿を移築して多家神社を復興しました。
宮司さんが言われますには、
藩知事をされていた浅野の知事さんによって抗争に終止符をうつためにも森でしたこの地に鎮座されたと言われました。
浅野藩知事とは、浅野長勲公のことですね。
多家神社の宝蔵、広島城三の丸稲荷社が現在に残ることができたのも、浅野長勲公の尽力があったのでしょうね。