比治山ホールのテラスから臨む放影研です。
放影研の前は、ABCCと言っていました。
1947年(昭和22年)3月に原爆傷害調査委員会(ABCC)は開設しています。
日本がまだ占領下の時にできています。
当時の広島市民の感情からしたら、原爆を投下しておいて被爆者を調べるなんてって思っていました。
1975年(昭和50年)4月、放射線影響研究所(略して放影研)と改組されました。
比治山の思い出としたら、
小学校の春の遠足は決まって比治山までの徒歩遠足でした。
広島大学病院の敷地の赤煉瓦の建物を横目に見て抜けて行きます。
今は病院は建て替わって、多分通り抜けはできなくなっているのかもしれないですね。
6年生は新1年生の手を引っ張ってあげます。
大抵、御便殿跡で弁当食べます。
桜の季節には、比治山は提灯が並び御便殿跡は夜桜を楽しむ市民で一杯になりました。
出汐町の方から登っても、多聞院の方から登っても、大きく道が別れます。
この放影研がある方へは、ABCCへは子供の頃は行ってはいけないと教られていました。
ただただ怖いと思っていました。
今思えば、宇宙人にでも連れて行かれるみたいに思っていました。
それが、今から20年は経つでしょうか?
放影研から健康診断のお手紙だったか電話だったか連絡があり、生まれて初めて訪ねました。
今年も、健康診断に行ってきました。
そして、今回(8月5日)、建物見学会です。
かまぼこ型と言っていました建物の見学です。
亡くなった父や母が知ったらビックリしますね。
2階に上がりますと、
かまぼこ型の天上のアーチがよくわかります。
建物の中で一番広い会議室です。
アーチ型がよくわかります。
日本家屋みたいに天井はないんですね。
扉も、木目の重厚な扉です。
今回は開ける事はなかったのですけど、健康診断の時、実際に扉を開けますととてもしっかりした一枚板なのでしょうか、
なんの根拠もなく、つまり何もわからないにも関わらず、この扉一枚で私なんぞは米軍のものはすごいとか思ったりしました。
くるくると中を見学させてもらいまして外へ出ますと、元のところに出ました。
まるで迷路です。
放影研は今は、アメリカと共同で研究しています。
あれから78年も経っています。
人類にとってとても役に立っています。