広島歴史探索の後は、お好み焼き「そば肉玉」じゃね

面白かったこと楽しかったこと感動したこと疑問に思ったこと書いていきたいと思ってます。時々、広島弁出ますけど

県道にあります「いぼ地蔵」、この地蔵さん「投石地蔵」とも言います。武田光和が武田山から投げた石がお地蔵さんに。

道ばたに何やらお地蔵さんみたいなのってありますよね。

県道277号線、国道54号線の祇園新道が出来るまでは、今の国道183号線を国道54号線と言ってまして、

通称新道と旧道って言ってました。

その旧道(県道277号線)に、小さな祠があり、Googleマップで見ますと、

「いぼ地蔵」となってます。

 

住所表記は祇園1丁目です。

訪ねても何も書いてません。

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上下線の車道しかなくそれでいて車の往来の激しいところで、そんまま進みますと太田川に架かる新庄橋へと繋がり広島市西区になります。

 

「いぼ地蔵」は、松の松葉でいぼをつつくと治るということでこの名前がついてるそうです。

とても、松葉はとれないくらい大木になっていました。

それから、

このお地蔵さん、「投石地蔵」とも言われ、

武田光和が武田山から投げた石がお地蔵さんになったと言われているそうです。

へぇ~、武田山から?

近いようでも結構あります。イチロウ顔負けですね。

どれだけ強肩なのでしょう。

 

武田光和は、武田元繁の嫡男としてうまれ、永正14年(1517年)父元繁が毛利元就の初陣と言われ西の桶狭間とも言われています「有田中井手の戦い」で戦死し、後を継いで当主となりましたけど、

光和も父元繁同様武勇に優れてはいたのですが安芸武田氏の衰運をとめることは出来なく、

熊谷信直の討伐を進めている最中天文9年(1540年)光和は37歳で急死し、若狭武田氏から武田信実を迎え入れましたが安芸武田氏の衰運は決定的になりました。

道ばたにありました「お地蔵さん」は、光和の無念とはいえいつまでもこの地を見守っておられますね。

祠の中覗いて見ればよかったですね、投石してなられたお地蔵さんがおられたんでしょうか。

ちょっと遠慮してしまいました。

 

牛田の不動院にあります「武田刑部少輔の墓」はこの方のお墓だったんですね。

ちょうど一年前の写真です。 f:id:sobanikutama:20201012035804j:plain

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