武田氏ゆかりの史跡で、
広島市安佐南区西原に「楊柳観音」さんがおられます。
冬木神社に隣接して同じ敷地内におられます。
楊柳観音とは、三十三観音の一つで、病苦からの救済を使命とされているそうです。
ここにいらっしゃるだけで、私達の苦しみを救っておられるんですね。
友だちに、行ったよって言うと、
「よく訪ねていったね。よかった、よかった。楊柳観音さんあなたを見守ってくださるよ。」
って、褒めて貰いました。
この観音さんが、何故武田氏ゆかりの観音さんかと申しますと、
表示板によりますと
粟原山尾喰寺 楊柳観音
本尊の観音菩薩像は聖武天皇の勅彫にして行基菩薩の点眼と伝えられる。
当国来至の曲縁、弘安6年(1283年)甲斐の国巨摩郡原田の圧より、武田信隆が安芸国の国司として西下の折、近江の国のきぬ川を渡らんとする時、馬の尾に喰いつくものがあるので不思議に思いしらべてみると、甲斐の国に残しておいた武田家に伝わる楊柳観音であった。
信隆は、大変喜び武田山麓の粟原(現在の青原)に堂宇を造り、これを安置した。
暦応三年(1340年)廿日市の桜尾城主平賀家が銀山城を攻めた時、当時の青原にあった安神社と共に、兵火にあったのでその難をのがれて、一旦、金蔵寺信重の屋敷へ移し、六十九年の後、応永年間(1409年)現在地に移ったのである。
これをもって粟原山尾喰寺楊柳観音と呼ばれるようになった。
「知新集」には、安産の観音さんとあり、古来腹帯をうける人多く広く民衆に親しまれている。
近年、有縁の人々の浄財により、本堂の大修理(昭和48年)茶堂、鐘楼の再建、屋根葺替え(昭和58年)をし現在に至る。
昭和六十年 月吉日
とあります。
武田信隆は、
武田氏が「承久の乱」で功績をあげ、安芸の国の4郡(安南、安北、佐西、佐東)を賜り、国司として赴任してきました。
西へ下る際、馬の尾に喰らいついてついてこられた楊柳観音さん、
なんだか、私いたく感動してしまいました。
桜尾城主に攻められ兵火からのがれ、その後武田氏滅亡と、さらにずっと時代は下って広島市の原爆投下により多くの方が非難された様、
想像しますのに、苦労されたんだなぁって思いました。
それともう一つ、
廿日市の桜尾城主に攻められ安神社と共に兵火にあってとあります暦応三年、
あまり聞き慣れない元号でして、
この頃はどんな時代だったのか調べてみますと、
1340年は、南北朝時代で、
北朝では、暦応3年。
南朝では、延元5年、興国元年(4月28日)で表されています。
武田氏は暦応を使っていることは北朝側だったことがわかります。
南北朝時代は、
足利尊氏が京都に入り、光明天皇をたて、
それに対して正当性を主張する後醍醐天皇が1336年皇居を吉野に移して、
京都の朝廷(北朝)と吉野の朝廷(南朝)の争いと習いました。
教科書でわずか2ページにまたがってあるだけです。
この度、先行予約で予約して竹田恒泰さんの「天皇の国史」買いまして、
とても分厚い本で実は全部読み切っていないのですけど、
南北朝時代のくだりを読むとすごくわかりやすいです。
そんな時代、安芸の国、武田氏は北朝側でどんな立場だったのでしょうか。
九州の筑後川の戦いで北朝側として参戦したのでしょうか。
興味ありますね。
足利義満、金閣寺と一休さんくらいしか知らなかったですが、衰弱した天皇の権威を意のままに動かそうとする義満がわかり、あの時代の複雑さがわかりました。
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