広島市中区の中央公園内に、第21代内閣総理大臣加藤友三郎像があります。
生家は大手町にあり、広島藩志加藤七郎兵衛の三男として生まれました。
台座には、
内閣総理大臣正二位大勲位
ワシントン軍縮会議首席全権
加藤友三郎 像
とあります。
平成20年に復元されています。
海軍の政治家でして、銅像はワシントン会議のときのフロックコート姿で復元されています。
戦前には、比治山公園内にありまして海軍大将の礼服だったそうです。
戦時中、戦時体制下において金属が供給され今は台座のみ残っています。
小学校の春の遠足で比治山行ってましてよく覚えています。
子供だったとはいえかなり大きい台座だったと記憶してます。でも、何のとか誰のとかは全く知らなかったです。
ワシントン会議とは第一次世界大戦(1914~1918)休戦後3年目にワシントンで開かれた会議で、
アメリカが列強の海軍の軍備縮小を提案し1921(大正10)年~1922(大正11)年開催されました。
1921(大正11)年、日本からは加藤友三郎、徳川家達(いえさと)が全権として出席しました。
ワシントン会議の結果、ワシントン海軍軍縮条約により
主力艦の比率がアメリカ・イギリスが5に対して日本3、フランス・イタリア1.67と決まりました。
この差は何なんでしょうかね。一律ではいけないんですね。
私が思ったように当時一部では不満の声があったみたいですね。
それと、アメリカとイギリスからしたら日本の大陸進出阻止したかったという意図すら感じられます。
しかし、加藤友三郎は「国防は軍人の専有物に非ず」とし日本は条約に妥協して
加藤は1922年第21代内閣総理大臣に就任し軍縮を進めていきました。
その後日本は、武力による競争から経済による競争に切り替えていきました。
太平洋を囲んだ列強が協調つとめたので昭和の初めまで戦争の危機は免れています。
今、世界は新型コロナウィルスという疫病が蔓延してまして、各国協調してこの疫病と闘わなくてはいけないと思いました。
私、今までのほほんと過ごしてきまして、高校生の日本史でもワシントン会議のこと習ったはずですが、習った記憶すらない始末です。
もう一度改めて知りますとどこか現代に繋がる何かがあるように思いました。
第一次世界大戦から、何故、第二次世界大戦にいってしまったのか?
もう少し勉強しないといけませんね。