今高野山、
かつてありました十二院のうちの一院の安楽院の境内に、祀られていた粟島神社の鳥居です。
この鳥居は南北朝時代の紀年銘を有するもので、
康暦2年(1380年)庚申2月13日の紀年銘が刻まれているそうです。
康暦(こうりゃく)は、室町時代の南北朝時代の後円融(ごえんゆう)天皇の代に使われた北朝の年号です。
柱は直立して建てられている古い様式で、
亀腹(台座)は左右とも残っており、当初は上縁に複弁の反花(かえりばな)をめぐらされていた痕跡が残っているそうです。
額束中央には大日如来を示す種子(梵字)が刻まれているそうです。
神仏習合の時代を表徴したものと書かれています。
台座に仏教の蓮華座で反転するように開いた蓮弁の反花の痕跡が残っていて、額束には大日如来の梵字の書かれた鳥居が今私の目の前にあります。
梵字はしっかり見たつもりでもよくわからなかったです。
台座は、痕跡があるとのことなので、あそこかな?と言った具合です。
屋根の幅は頂部1.74メートル、中央部額束上の屋根高は1.62メートルで、
丁度、私の背丈ほんの少し低いくらいです。
600年以上前、当時の人はこの神仏習合の鳥居に腰をかがめて潜り参拝し崇拝してたんですね。