広島県世羅郡世羅町甲山の1200年の歴史を持ちます今高野山です。
歴史のうつろいとともに幾度の波に呑まれながらの今日がありますね。
歴史教科書の中での、荘園制度、院政等々、実感することなくただ暗記科目として通り過ぎていました。
知らなかったことだらけです。
今高野山の龍華寺です。
龍華寺は、
観音堂、御影堂、護摩堂の三堂と呼ばれ、今高野山の中心をなすお堂として崇拝されてきました。
現在のお堂は、元禄13年(1700年)火災により焼失してしまい、
元禄15年(1702年)広島藩主浅野綱長公によって再建されました。
この頃、まさに、
元禄14年3月14日巳の下刻、松の廊下で浅野内匠頭、吉良上野介に「この間の遺恨覚えたるか」と切りつけました、浅野内匠頭刃傷事件が起こり、内匠頭は即刻切腹となり、
上野介はお咎めなしとなりました。
元禄15年12月14日、赤穂浪士47人は吉良邸に討入り主君の仇をうち本懐を遂げました。
世に言う、誰もが知っています赤穂事件がおこっています。
その時の浅野家広島本家の藩主が、浅野家宗家6代目、浅野氏広島藩主4代目の浅野綱長公です。
綱長の綱はおそらく徳川家綱から頂いたものでしょうね。
赤穂は分家とはいえ浅野家にとっての一大事、幕府との板挟みで辛かったことでしょうね。
浅野綱長公の龍華寺再建には、
広島大工57人、木挽(こびき)3人、甲山大工4人らがあたって、
建築部材などは、広島の楠木小屋で木づくりをし、現地の甲山まで村送りで運ばれたとのことです。
広島の宮大工をあげての大プロジェクトだったのでしょうね。
綱長公の祈願寺としての思いが伝わってきます。
ちなみに、綱長公は、延宝8年(1680年)、福島正則公(1605年)が創建しました厳島神社の能舞台・楽屋等を再建しています。
また、広島の楠木小屋とは、現在の広島市西区楠木町のことですかね。
楠木町は、広島城の北西にあたり、崇徳高校があります。
製針、製材、ゴム工業など主要産業が栄えた町です。