広島市安佐南区の武田山麓の祇園4丁目、
こんもりと杜があります。
背後に見えますのが、武田山です。
杜にそって上って行きますと、背後には広島市郊外の安佐南区祇園長束の街が広がっています。
さらに杜にそって上って行きますと、車ではとても通れない道幅の小径です。
初めて訪ねたにもかかわらずどこか懐かしい小径です。
石段の上の鳥居の額束には大年神社と書いてあります。
上り詰めますと、
がらんと、
小さな祠とお寺と鐘撞き堂があります。
お寺の名前は、勧喜寺です。
鐘撞き堂の鐘に、「瑞城山勧喜寺」と銘打ってあります。
間違いないです。ここが勧喜寺です。
広島市安佐南区のホームページで紹介してありました安芸武田氏ゆかりの史跡です。
武田氏が銀山城主だったころ、勧喜寺境内に出城を造り、ここに米庫を設けて兵糧を貯蔵していたそうです。
平員家の「銀山城攻め」の際、兵火にあって米庫は焼失したと伝えられています。
明治末期のころ、地中からたくさんの焼き米が掘り出されたそうです。
安神社もこの地の近くのところにあります松尾山(今の祇園中学校)に祇園社として建てられ、1299年、平員家が多数押し寄せて戦になり、一切を焼失したとあります。
幸い御神体は難を逃れ武田氏によって今の地に本殿が再建されました。
平員家は、廿日市市にあります安芸国桜尾城主平員家のことです。
安芸国総鎮守速谷神社を尊崇していました桜尾城主と承久の乱のあと鎌倉幕府の命を受けてきた武田氏との間で何もないというのは考えられないです。
何だか、少しずつですけど歴史の紐が解かれていく感じです。
鳥居から臨む武田山です。