三瀧寺にあります「多宝塔」です。
とても、重厚的で美しいです。
三瀧寺多宝塔は、広島県重要文化財に指定されています。
説明のボードによりますと、
大永6年(1526年)の創建というこの塔は、和歌山県広八幡神社の境内に建立されていたものを、原爆犠牲者供養のため、昭和26年(1951年)に広島に移築されたそうです。
何故?歴史のある多宝塔がわざわざ広島に移築されたのでしょうか?
ボードだけではどうも分からないですね。
広島に移築された経緯はわからないですけど、
和歌山県広八幡神社について少し調べてみましたら、
慶長5年(1600年)浅野幸長(あさのよしなが)公が藩主になると神領10石を寄附されたとあります。
大名浅野家は、家門を形成し始めたのは尾張国に生まれた浅野長政公を初代と数え、浅野家の名声を高めたのは2代目浅野幸長公です。
浅野家3代目浅野長晟(あさのながあきら)公は元和5年(1619年)安芸国広島に入城します。広島藩主初代となります。
浅野長晟公が安芸広島に転封されたあと、紀州徳川家が入封されて広八幡神社は歴代藩主に手厚く保護されたそうです。
明治元年(1868年)神仏分離令が発せられ、全国的に廃仏毀釈の運動が激しくなり、
末社・多宝塔・鐘楼・西門・神楽所・観音堂が取り払われていったそうです。
多宝塔は広島市三瀧寺で広島県重要文化財です。鐘楼は和歌山にあります法蔵寺にあり国の重要文化財で、西門は同じく和歌山にあります安楽寺にあるそうです。
明治に取り払われた多宝塔、明治・大正を経て昭和のしかも戦後まで、どこでどう保存されていたのですかね。
多宝塔が建立された大永6年(1526年)は室町時代の戦国時代です。種子島に鉄砲が伝来した1543年より少し前です。
厳しい時代に建立された多宝塔は、明治に入り数奇な運命をたどり広島の地に来ました。
原爆でぼろぼろに打ちのめされたところから立ち上がろうとしている広島に昭和26年にやってきました。
浅野さんの広島入城から遅れること332年後にやってきました。
何だか、浅野幸長公から繋がっていると思うと驚きと感動を覚えました。