立専寺より少し背を向けたように、眞幡神社がありました。
立専寺の駐車場を横切って行きますと眞幡神社の裏に出ます。
これはいかん!とばかりに神社の縁を周り正面鳥居からの参拝です。
眞幡社の縁起によりますと、
安藝の國守護職として鎌倉初期、武田信光。
信光は新羅三郎義光の玄孫武田信義の子なり。
初石和(イワワ)五郎又は大膳大夫、承久の功以て
ここに補せられ金山(武田山)に據り代々此の國を領し五代武田伊豆信宗剏て金山城を築き子孫之を継ぐ、十三代光和の没後家人等光和の外姪信実を奉じ城壘を保ちしが偶々世は戰國、天文年間安藝吉田の庄に起りし毛利元就 “祖師親建武二年地頭職吉田の邑を食む”に亡され金山城即ち武田山の終焉となる。
光和の墓三王原にあり櫻樹をしるしとす、沼田郡東山本村は昔東西一村なりしを後二村に分てりといふ。
永禄三年庚申毛利元就西山本村に八幡宮を甫めて建て梁上蟆股(サルマタ)に毛利の家紋を彫る、東山本村民同じくこれを祭る、末社一字あり、と蓋しこれ眞幡社の前身なるべく社紋に幟など毛利家紋を今に用ふるはその考証に難からず(藝藩通志により)
爾來毛利、福島、浅野と國守の変遷あり古老の傅に黄幡(おおばん)さん(今の俗称)は村民の崇拝厚かりしに徳川幕府後期或時御神体を移し去られ比治山々麓の黄幡社に祀られとなり。
氏子等之を憂ひ或年藩主の参勤交代の砌(みぎ)り従ひし氏子お小人某(名前思い出せず)播磨の國某社からその御分体”猿田彦命”を勧請鎮御して今に及ぶ去々。
眞幡社の社名の起りは定かならず幕末藝藩々医当村香川寿軒翁の筆になる社頭の鳥居の額(木製)に反り大正三年今の石の鳥居に改装の際その筆蹟を其儘に爲彫して現在に至る(祖父伝承古老の口伝により之を識す)
昭和三十七年三月
社殿の変遷往事のもの文献定かならず。
一、幕末、慶應当時の若連中主体の元に建てりと伝ふ。
一、昭和八年老朽の故に神殿拝殿共に改築なる。
とあります。
なかなか、現代では使い慣れていない漢字や言葉で少し読みづらく変換もあっているのか何て読むのか苦労しました。
また、ここでは銀山城を金山城と書かれています。
時代に翻弄されての今があるのですね。
しかし、伝えないとという思いは伝わります。