武田山山頂で、岩に腰掛けてコンビニで買いましたおむすびを頂きました。
景色を眺めながら頬張るおむすびは特別ですね。
眼下に広がります広島市の祇園地区です。
大きく旋回した太田川に古川が合流しているのがわかります。
武田山が中世にどんな役割を果たしたのか、安芸の国における祇園地区に武田氏がどう関わっていったでしょう。
頂上に掲げてありました掲示板には、
「銀山城跡(かなやまじょうせき)」昭和31年3月30日、広島県史跡に指定
鎌倉時代初期、旧祇園町一帯には、安芸国内から運ばれてくる物資の保管倉庫(倉敷地)が集中していました。
また、この地域は、古市、今津などの市場や港町で賑わい、安芸国の政治、経済、交通の大変重要な場所をしめていました。
こうした要衝の地をおさめるため、承久の乱(1221年)で手がらをたてた甲斐(山梨)守護職武田信光は、安芸守護職に任命され、守護所を武田山南麓に構えました。
その後、鎌倉時代末までには、武田氏により銀山城が築かれたと伝えられています。
銀山城は、これ以降、天文10年(1541年)大内氏の命をうけた毛利元就らに攻め落とされるまで約300年間、太田川中、下流域を中心として安芸国支配をすすめようとした武田氏一族の一大拠点として重要な役割りを果たしていました。
現在、銀山城跡には、斜面を削り取り、平らにした50近くの郭の跡や堀切などが残っています。
特に中腹の要所に設けられた御門跡とよばれる郭跡には、通路を直角にとるかぎの手の石積みを残っており、近世城郭の枡型の原形として大変貴重なものといわれています。
このように広島市域で最大の規模をもつ銀山城は構造的にもきわめて優れており、広島県を代表する中世の山城といえます。
と、あります。
掲示板横に等高線の地形図に銀山城跡郭配置図があります。
黒色で記されているのが郭跡です。