広島東照宮に明治の広島がありました。
西南戦争「旌忠碑(せいちゅうひ)」について
この「旌忠碑(せいちゅうひ)」は、明治10(1877)年2月に明治新政府と西郷隆盛を首領とする鹿児島士族らとの間に生じた「西南戦争」で亡くなった広島鎮台兵の顕彰と慰霊のために建立されたものです。
この石碑には、熊本城から田原坂、鹿児島に至るまでの政府軍と薩摩軍との激戦の様子が記されています。
政府軍には広島鎮台からも兵を出しており、戦闘では政府軍の先頭に立って奮戦し、六百数十名もの戦死者が出たと伝えられ、この中には多くの広島出身者が含まれていました。
国内ではこの戦争を最後に士族の反乱はなくなり、政府による権力的基礎は確立され、近代化が進んでいきます。
「旌忠碑」の「旌」は、旗幟(きし)を高く掲げて広く知らしめるとの意味があり、石碑では戦死した広島鎮台兵の健闘奮戦を伝え、国家泰平の基が築かれたその功績は特筆されるべきものとの思いが込められ、西南戦争の翌年、明治11(1878)年に広島東照宮の境内に建立されました。
石碑は、原爆による被害と太平洋戦争後の混乱に紛れて一時所在不明となっていましたが、この度多くの方々のご理解を得て、明治期の広島の歴史を後世に伝える貴重な資料のひとつとすべきものとの思いで、元の位置に復元・建立したものです。
撰文(せんぶん)並びに篆額(てんがく)は西南戦争当時広島鎮台司令長官で長州藩出身の三浦梧楼(みうらごろう)、書は旧岩国藩士の塩谷處(しおのさだむ)によるものです。
西南戦争から140年の時を経て改めて広島の歴史継承に思いを寄せて復元建立した
平成29(2017)年10月
西南戦争「旌忠碑」復元委員会
旌忠碑の説明文書き写しました。
どの時代でも変わり目には色々な悲しい出来事があります。
勝者にも敗者にもそれぞれに道理があると思います。
まさか、ここで西南戦争に出会うとは思ってもなかったです。
ずっとわからなかったんです。
これは、私の解釈ですが、
何故、戊辰戦争では新政府側で江戸城無血開城までして明治維新の礎をした西郷隆盛が、西南戦争では突き進んだのとは逆のような行動をとったのかどうしても理解できなかったです。
ずっと、高校生の時の日本史の授業で習ったときから疑問に思ってました。
未だにすっきり理解できてないです。何故?って答えは自分で肌で感じるしかないと。思ってます。
「越すに越されぬ田原坂」訪ねたことないのに、なんか切ないです。
それからこの碑に出てきます、広島鎮台とは何でしょう。
1873年から1888年まであった日本陸軍の部隊のことだそうです。
日本を6つの軍管にわけ、
広島に本営をおき、中国地方西部と四国地方に相当する第5軍管を管轄し、
1888年の鎮台廃止により第5師団に引き継がれたそうです。
広島鎮台について調べましたところ、こうありました。
広島城やその近辺、白島あたり歩きますと第5師団とかなりでてきます。
第5ってなんだろうと思ってましたら、そう言うことだったんですね。
明治から昭和激動の時代、知らないこと多すぎます。
もう少し散策しましたら某答えが出てきますかね。