旧日本銀行広島支店跡の東側に、頼山陽史跡資料館があります。
鯉城通り界隈はいわゆるビジネス街で突然現れる江戸時代にタイムスリップする感じです。
戦前からこの石柱同じ場所に建っているそうです。被爆して折れて修復したそうです。
ヒビが入ってるところがそうですかね。
案内のチラシによりますと石柱には、
徳富蘇峰筆「頼山陽先生日本外史著述宅跡」と記されてます。
門をくぐりますとまず、頼山陽先生像が目に入ります。こんにちは!なんか挨拶してしまいます。
そんな軽い挨拶でよかったかしらね。
史跡「頼山陽居室」です。
思いの外狭いです。
脱藩を企てて、5年間幽閉されたところです。
建物は、原爆で、倒壊しましたので復元されてます。
頼山陽は志をもって脱藩したとあります。
廃嫡の上この袋町の自宅に幽閉させられています。
この時代、脱藩ということはそれは大変なことだったと思われます。お家は断絶、切腹も止むを得ないほどの大罪をしでかしてます。
また、廃嫡ということもこの時代武家のお家ではこれまた大変なことだと思います。
しかし、
幽閉されてる間に「日本外史」の初稿を完成させたそうです。
幕末には、この「日本外史」今でいうベストセラーになったそうです。
とりわけ広島藩の志士たちは誇りだったみたいです。
それは、後のこと当時はどうでしょう。とりわけ母君はご苦労されたのではないでしょうか?彼の頭の中ではすでに日本外史の構想はできていたかもしれないですけど、それがどれだけの人の理解できてたでしょうか?
その後彼の執筆活動のきっかけとなっています。人によっては、周りに押されて四面楚歌になって浮き草みたいなつまらない一生を過ごす人もいるとおもいます。
しかし、彼はいちがいはって生涯執筆に専念しました。
あっ、そうそう、先日県外の友達に「いちがい」ってなに?って聞かれました。
えっ?「いちがい」って広島弁?
「いちがい」とは、いわゆる一般で言う一概にの意味のおしなべてとかひとくちにはとは違います。
「いちがいな」とか「いちがいはる」とか言いますが、頑固なでもいいんですけど、
すべてに関して何でもかんでも頑固ってことではなくて、一途になにかこだわりに対して人がなんと言っても言い張る。と私はおもいます。
あまり「いちがいはる」と人はあきれて、「いちがい坊主!」って言いますね。
私、子供の頃女なのに言われたことあります。何を主張したんですかね。
何も言わずに言うこと聞かなかった、、、気もします。
「ウチ、坊主じゃぁないし!」ってはぶてていました。笑いますよね。
あっ、はぶてるも広島弁ですね。ふくれっ面するって感じですかね
頼山陽の居室の庭に古井戸の跡があります。
頼家にあやかり、この井戸の水を書き初めに使うと字が上達すると言われてたそうです。残念ながら今は埋められて井戸枠だけが残ってます。
この井戸枠の上によく時代劇で見るカランカランって滑車に桶をぶら下げてる井戸があったんかしら。