伝説の中での清盛公の一生と瀬戸内海の掲示されていたボードのうち、
前回に続いて、後半を書きます。
清盛年譜(音戸の瀬戸を中心に)
鳥羽天皇、
元永元年(1118年)、清盛誕生。
崇徳天皇、
大治四年(1129年)、父忠盛、瀬戸内海海賊追討。
保延元年(1135年)、仝後、清盛従四位下となる。
近衛天皇、
久安二年、清盛安芸守となり厳島神社改修する。音戸の瀬戸開削計画。
仁平三年(1153年)、父忠盛没。
後白河天皇、
保元元年(1156年)、保元の乱の功績により清盛は播磨守となる。
二条天皇、
平治元年(1159年)、平治の乱起こる。
長寛二年(1164年)、厳島神社に平家一門の法華経の書写を奉納する(平家納経)。音戸の瀬戸開削工事着手。
六条天皇、
永元元年正月(1165年)、清盛、検非違使別当権中納言より兵部卿兼ねる。
仝7月、音戸の瀬戸開削工事竣工。
仁安元年(1166年)、清盛内大臣となる。
仁安二年(1167年)、清盛従一位太政大臣となる在任三ヶ月。
高倉天皇、
仁安三年(1168年)、出家して浄海入道を名乗る。厳島神社社殿大改築。
承安元年(1171年)、清盛の娘徳子、高倉天皇の女御となる。
承安三年(1173年)、兵庫経ヶ島工事着手。
治承二年(1178年)、徳子皇子(安徳天皇)を産む。
仝三年(1179年)、平重盛没す。
安徳天皇
仝四年(1180年)、安徳天皇即位大輪田泊を修築する。
養和元年(1181年)、清盛京都にて没す。遺骨を神戸福原墓所に埋める。
音戸の瀬戸大橋を中心に瀬戸見展望台完成を記念し清盛公一生の一部を掲示しました。
とありました。
掲示では、表形式になっていましたけど、連記させて貰いました。
年齢も少し不明なところがありましたので省かせて貰いました。
今までは、断片的に、年号と名称だけしか知らなくて、
今回と前回で、
時系列的に見てみますと、
清盛が、
なぜ、厳島神社を今のような社殿に改築したのか?
なぜ、音戸の瀬戸を開削したのか?
なぜ、厳島神社と音戸の瀬戸に着目したのか?
が分かったような気がしました。
平家と言えば、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で始まります平家物語の「祇園精舎」が思い起こさせます。
琵琶の音色とともにどこかもの悲しさを感じられ、切ない思いがします。
しかし、清盛の功績をみると、後世に残したものとして、
瀬戸内海を航行するのに今でも厳島神社と音戸の瀬戸は、要として存在しています。
瀬戸内海ではなくてはならない存在です。
やはり、清盛さんはすごい方って再認識しました。