音戸の瀬戸公園にあります二重の塔。
いつ創建されたのか分からないですけど、
「平清盛、音戸の瀬戸を開き、ここに記念し二重塔 を建てる」とだけあります。
十二世紀頃でしょうかね。
見晴台に平清盛についての記録が掲示してありました。
書き写しますと、
伝説の中の清盛と瀬戸内海
一,古代より交通路線に陸路より安全で便利な瀬戸内海の利用者が多く。
二,地方豪族の貢納物や京阪神に販路をもつ者は隣国唐、宋(支那)三韓(朝鮮)等より交易を盛んに瀬戸内海を往来した。
三,海上交通が盛んになる程船賃をふっ掛けたり積荷を奪ったり貴重な財物を略取する海賊が横行するようになった。
四,朝廷でも追補使を差し遣わしたが鎮撫出来ず。
五,たまりかねた朝廷は平忠盛(清盛の父)及清盛に海賊の討伐を命じ六年間和戦両用で苦難はあったが平定を見る事が出来た。清盛年18才。
六,瀬戸内海海賊追討の功により清盛は従四位下となる。
七,清盛はやがて西国に君臨し宋貿易に力をそそいで巨富を積みこれが平家一門の経済的基盤を作った。
八,忠盛も海賊追討の功により播磨、伊勢、備前守と勢力をつけ九州の博多と安芸の厳島を根遽地に宋の国と貿易を行い大儲けした。
九,清盛は久安二年安芸守となり厳島社殿改修音戸の瀬戸開削を始めた。それは、博多、厳島、兵庫を貿易交路とし音戸の瀬戸が必要になり工事を進めた。
十,忠盛は36才没(清盛36才の時父忠盛没)、清盛、39才播磨守となり47才で厳島神社に平家一門の法華経の書写を奉納する(平家納経)48才権中納言となる。
十一,音戸の瀬戸開削工事竣工。永万元年7月この大工事に要した労力は延6万人、経費金五貫五百匁、銀十五貫、当時換算二十五万両、清盛、47才。
十二,清盛は従一位太政大臣となり50才其の後仏門に入る。
とあります。
金五貫五百匁(もんめ)、銀十五貫とありますけど
今の重さに換算し直しますと、
一貫=3.75㎏、1匁=3.75gです。
金五貫五百匁=金20㎏625g、銀十五貫=銀56㎏250gです。
単純に今の相場で計算しただけでもすごい金額になります。
でも、当時の金の相場、経済とか考えると見当が付かないですね。
単純に計算すればいいってものではないですね。
ただ、それに厳島神社創建も加えますとすごい財力ですね。