広島市南区段原山崎町の段原山崎第2公園です。
段原再事業東部地区完成記念碑が建っています。
東西南北、右を見ても左を見ても、昔の名残は微塵も残ってないです。
まるで知らないところに突然ワープした感じですね。
その公園に、我が母校、段原中学校旧東校舎の遺構があります。
目をつむれば、昔の景色が浮かんできます。
段原中学校旧東校舎は、
私たちの時は、たしか、1階が木工室で2階が、1年7,8、9、10組(私は1年9組でした)と、
それと、
養護学級(今は特別支援学級と呼ぶのでしょうか?間違ってたらすみません)、家庭科室がありました。
太陽の光線が入り写真わかりにくいですけど、とても懐かしいです。
当時は、古いんだか新しいんだか、木造ではないしコンクリートでもなんだか古くさいと思っていました。
パネルを見ますと、
1932年(昭和7年)3月に広島市第一高等小学校の校舎として、ここに建築され、当時としては数少ない鉄筋コンクリート造の校舎でした。
1941年(昭和16年)4月に広島市第一国民学校と改称され、
1945年(昭和20年)8月6日の原爆投下時には、爆風による窓枠や窓ガラスの破壊はあるものの倒壊を免れ、被災者の臨時救護所となりました。
臨時救護所の解散後、1949年(昭和24年)4月に広島市立段原中学校と改称され、旧東校舎は3度の増築により写真の通り2階建てとなりました。
以降、教育活動を支える学びの場として使用されました。
2011年(平成23年)4月、段原中学校は、この地から南へ約500メートルの南区霞1丁目に移転しました。
とあります。
もう一枚のパネルには、
第一国民学校の時の物で、被爆後、爆心地から約2,640メートルの
東校舎と講堂は臨時救護所となったときの写真です。
写真を見ますと、救護所といっても、とにかく夜露が凌げればといった感じです。
段原山崎第2公園に、
被爆しました旧東校舎の1階外壁の一部と旧校舎の正門柱が保存されています。
私は、3年間、この正門柱を潜り通学しました。
学校の北側から西に沿って宇品線が走り、
授業中、ポーッと汽笛を鳴らしてSLが走っていました。
なんて言いましょうか、
あの、ごちゃごちゃした下町、消防自動車も入らない狭い路地、不便の極みだったはずなのですけど、
あの頃が懐かしいです。