広島歴史探索の後は、お好み焼き「そば肉玉」じゃね

面白かったこと楽しかったこと感動したこと疑問に思ったこと書いていきたいと思ってます。時々、広島弁出ますけど

懐かしい段原の町を振り返ってみました。今は再開発で様変わりしてます。

先日、武田山懐かしいっていってくれた方がおられました。

不動院から写した写真に母校の小学校が写ってたそうです。

私ももう一度確認しましたら、うん?これかな?って今一分からなかったです。

 

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 私の母校は、段原再開発で、元警察学校跡地に移転してます。

比治山の陰になって原爆による焼失を免れた町段原は、再開発により跡形もなく変わってしまいました。

中学があった所は、段原山崎町で

最寄りのバス停は、段原日出町で、

それから段原末広町に

父の実家、つまり私達は本家って言ってましたが、

段原大畑町で、

ダンス教室があり、卓球場があり、映画館があり(開発の頃にはなくなってました)

町全体が戦前のままでしたから、道路は狭く家がひしめいていて、下町風情満載でした。ただ、一旦火事が起きると消防自動車が入りづらく延焼で被害が拡大するという問題がありました。

中学校でも、段原に火事がおきたら、校内放送で「〇〇地区で火事が発生してます。」ってよく流れてました。

グラウンドはものすごく狭く、当時は一学年10クラスあるマンモス校(後に仁保中学が新設されて分かれます)で、

朝礼で全学年グラウンドに並ぶと埋め尽くされてしまう始末です。

広島市も当時苦肉の策で、一階にプールを作り二階に体育館を建てて、画期的なとか何とか言ってましたが、

まさに欠陥プールって私達陰口言ってました。

日照不足でプールの水温は上がらず寒くて泳げた物ではなかったです。

温水プールにする予算はないけど、狭い校庭に体育館とプールは確保!みたいな

私、当時中学生にして行政の甘さを実感したわけです。

段原の町を国鉄宇品線が貫いてまして、蒸気機関車が段原の町を煙吐いてポーと汽笛鳴らしながら突っ切ってました。

授業受けてましたら汽笛のポーという音をを耳にした物です。

戦時中は多くの軍人さんを宇品港へ送ってまして、戦後は市民の足となってました宇品線もやがて廃線となり、運輸省の管轄になり一日一便早朝、貨物列車が動いてました。国道2号線を列車が横切る様はなかなか面白いって、当時遭遇した主人が言ってました。

それも廃線となり、猿猴川の鉄橋は「平和橋」となり「MAZDA ZOOMーZOOMスタジアム広島」へと繋がってます。