広島歴史探索の後は、お好み焼き「そば肉玉」じゃね

面白かったこと楽しかったこと感動したこと疑問に思ったこと書いていきたいと思ってます。時々、広島弁出ますけど

広島市東区、狐瓜木(くるめぎ)神社です。鶯が鳴いています。

広島市東区戸坂くるめ木にあります狐瓜木(くるめぎ)神社です。

安芸大橋から広島県道37号線広島三次線を太田川の下流に向かって歩きますとすぐ、

左側に住宅街の中に、こんもりと杜が見えてきます。

たぶんそこでしょうと目指して行きますと、

狐瓜木神社に辿り着きます。

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ご祭神は、

本殿 誉田別命(ほんだわけのみこと)

   帯仲津彦命(たらしなかつひこのみこと)

   息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)

相殿 志那都彦神(しなつひこのかみ)

   事代主神(ことしろぬしのかみ)

 

御由緒をみますと、

 志那都彦神、事代主神を勧請したのが貞観2年(860年)です。

 志那都彦神(風伯神)は風の神で、古事をひもとくにつれ、上古、此の一帯の土地は海であったことが実証されるとともに祭神との因縁の深いことがわかる。

 事代主神は大国主神の御子で恵比須大神とも申し上げ漁村、商家の多く祀られている。

 狐瓜木神社は八幡宮とも呼ばれ、その八幡神三柱の神の勧請は、永観2年(984年)で当時、大神の御稜威により大陸から文化の移入が盛んであったので文化神として全国的に崇敬されている。

文永11年(1274年)武田信時が安芸国の守護に封ぜられ狐瓜木を佐東郡の総社とされた。

 その後、大内義隆、毛利元就の領主は、それぞれ神田を寄進されている。

浅野藩主は代々、祈願所とされ狐瓜木神社と深い縁故があった。

 延享4年(1747年)1月、社殿回禄し宝物類を全焼した。

現在の弊殿、拝殿は文化2年(1805年)に再建され、神殿は大正元年(1912年)に改築されたものです。

 大正2年(1913年)10月には神社創建千年祭(1053年相当)が盛大に執行された。

 

とあります。

 

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とても、厳かです。

神社の参道の石段を上り、境内には鶯が「ホーホケキョ」と鳴いています。

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私が、太田川から歩いて来ました道は、当時は海だったのですね。

以前に、広島は太古には安芸大橋辺りまで海だったこと聞いていましたことを思い出しました。

戸坂から峠を越した先には、安芸の国府が置かれました府中町へ辿り着きます。

古代山陽道はどのみちでしょうね。

 
 
 
 
 
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