JR芸備線に沿って、県道37号線を車で走って、
安芸高田市向原長田の「浄土真宗本願寺派 深谷山 真徳寺」の前を通りますと、
「真徳寺の大仏さん」と「尼子三兄弟縁りの墓」といった掲示に目がとまります。
ここ、毛利の本拠地安芸高田市のお寺で、
山陰の覇者尼子氏の家紋「平四つ目結(メユイ)」です。
尼子氏は源頼朝挙兵に際して最初から参加しました佐々木氏の一族の
宇多源氏京極支流です。
お寺の鐘楼の向いの大仏堂です。
阿弥陀如来像で総高198.5m・像高139.5m、檜材寄木内ぐり作りです。
そして、このお寺より北方へ約400m山中に尼子三兄弟縁りの墓があるとのことです。
少し車で回ってみましたら、小さな祠があり、墓はもう少し奥だと思うのですけど、通り道での寄り道してて、しかも知らない土地で地元の人にも出会えなかったものですから断念して帰りました。
毛利氏と尼子氏の攻防(月山富田城の戦い)の結果、永禄9年(1566年)11月21日尼子氏は毛利元就に降伏して、
義久・倫久(ともひさ)・秀久の三兄弟は、11月28日出雲国富田城を出ました。
随従を許された人々と共に、毛利の将兵に護られて、
杵築(大社町)・田儀(多岐町)・河井(大田市)・河本(川本町)・出羽(瑞穂町)・横田(美土里町)を経て、12月14日ここ長田に到着しました。
ただちに円明寺に入り、当地の内藤元泰が厳重に監護しました。
三兄弟らは毛利氏から懇切に待遇され、長田の地に約23年間を過ごしました。
そして志路(白木町)に移され、後にさらに毛利輝元移封とともに長門(山口県)に転じてそこで歿しました。
したがって、尼子三兄弟の縁りの墓は、随従した重臣の墓だろうと考えられるそうです。
真徳寺の大仏さんは、
真徳寺より北方山頂近くで、寺跡から俗に「大門の瓦」という布目瓦が出土して、奈良時代までさかのぼる古代寺院円明寺の本尊であったと伝えられていますところに仏像はあったそうです。
それがいつしか、尼子三兄弟が幽閉されました寺として知られる長谷山の腰にあった円明寺(真言宗、田屋城主内藤河内守の祈願所)に移され、
さらに、宇徳丸にあった真徳寺境内の大仏堂に安置されていました。
昭和28年、現在地に本堂新築と共に移転されたそうです。
尼子三兄弟の尼子義久は、尼子晴久の嫡男です。
月山富田城が陥落した際、毛利元就は義久と弟たちの三兄弟の自決を許さず安芸国の円明寺に幽閉しました。