広島県廿日市市の極楽寺の住職さんから、毛利元就によるお寺の再興で実際に施工されたのは宍戸氏とお伺いしまして、
地図を検索しますと、
広島市佐伯区海老山に宍戸氏館跡があることがわかりました。
子供の頃から地名だけは知っていました海老山、と言いましても海老園と記憶しています。
海老を「えび」ではなくて「かいろう」と読みます。
JR山陽本線の五日市駅で降りまして、南口に出て国道2号線を下りますと5~6分も歩けばこんもりと左側(海側)に小高い山が見えます。
海老山です。
少しわかりにくいのですけど、石段があり上りますと、
宍戸氏館跡の掲示板があります。
毛利氏の家臣でした安芸宍戸氏は、陶氏との合戦に備えて殿山(どの辺りなのかよくわからないです)と海老山の間に居館を構えたとあります。
戦前までは石垣が残っていて、広電宮島線の海老塩浜踏切の軌道敷となり、かつての館跡の名残と言われているそうです。
国道2号線を跨いでかつての館はあったそうです。
五日市村海老山城主宍戸備前守の居城跡です。
陶氏との合戦に備えてとは、
1555年「厳島合戦」が毛利元就と陶晴賢との間で行われたことをいいます。
大きな合戦を行うには用意周到に物事を進めないといけないということですね。
館跡も何年もの歳月を繰り返しますと僅かな痕跡しか残らないですけど、それでも僅かでも残っているのなら継承していかないといけないですね。
さらに、石段を上りますと
公園があり、
公園の片隅に大きな桜の樹の下に、小さな五輪塔が並んでいます。
三十人の墓とあります。
安芸国の毛利元就と周防国の陶晴賢との「厳島合戦」の前に、
三万の陶氏の軍勢は、宍戸氏の居城を攻め30人の犠牲を出し、武士の遺骸を海老山に土葬され、埋葬された後に村民により墓石が建てられたそうです。
今でも、桜の樹の下で大切に供養されているそうです。