広島歴史探索の後は、お好み焼き「そば肉玉」じゃね

面白かったこと楽しかったこと感動したこと疑問に思ったこと書いていきたいと思ってます。時々、広島弁出ますけど

安川上っていきますと、安村忠魂碑と災害の碑があります。

安川緑道公園を抜けますと、本流の安川との堰きにぶち当たります。

この堰きで止められ暗渠として緑道公園になっています。

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今は安川は、まっすぐ伸びて やがて古川と合流します。 

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 安川の河川敷に沿って上っていきますと天気がよかったせいかとても気持ちのいいものでした。

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安川上っていきますと、安村忠魂碑とその奥に災害の碑があります。

 

説明板によりますと、

 

安村忠魂碑には、

明治時代から大正時代までの数々の戦争に参加して亡くなった安村出身の霊を慰めるために大正11年(1922年)建立されたものです。

西南戦争、日清戦争、北清事変、日露戦争、シベリア出兵、

その後、水害などによる損傷がひどくなり遺族からの要望もあって、

日中戦争、太平洋戦争の戦死者および原爆で亡くなった動員学徒、義勇隊の方々の霊を含めてが祀ることになりました。

昭和36年(1961年)、遺族の方々や町の人々の寄付により修築され現在の姿になったものです。

同年盛大に完工式と慰霊祭(仏式)があげられ英霊371柱の冥福が祈念されました。

 

災害の碑は、

大正5年(1916年)9月6日夜半、雷を伴う豪雨がしきりに降り、安川は濁流となって堤防が決壊し、田畑や家屋は泥流に押し流され、小高い丘が谷になるような惨状となり膨大な被害を引き起こしました。

死者4名、流失家屋21戸、堤防決壊14ヶ所、橋の流出15ヶ所、多くの道路、田畑が流失し、この場所に建っていた役場や大事な書類はすべて流失し、安村存亡の危機となりました。

此の時、近隣の町村や海外の移住者からのあたたかい義援金が多く寄せられ、併せて、復旧の人的援助も近隣の町村から寄せられ昼夜の兼行、不眠不休の尽力により3ヶ年の歳月をかけて復旧しました。

この「災害の碑」は大きな災害を受けた当時の状況と、その苦境を乗り越えて安村の再建に取り組む村人の姿を後世に伝えるために大正8年(1919年)に建てられたものだそうです。