三原へ行きますと、小早川隆景公一色で、随分慕われていたのが伝わりました。
そういえば、一昨年博多の筥崎宮に姪に案内してもらったとき、
楼門を小早川隆景が造営したと記してあったのを思い出しました。
幼い毛利輝元を吉川元春とともに支えて瀬戸内海を掌握していたと認識してましたが、
九州のこの地にしかも、筑前藩主小早川隆景とあります。
そのとき、あれ?って思ったのですが、その経緯はいつかまた、、、
一昨年写した楼門です。
「敵國降伏」
何の予備知識もなく訪ねまして、いきなりのこの楼門、
元寇に攻められて、鎌倉武士は敵国をねじ伏せて降伏させたわけではないはず、日本国を守ったって認識してます。その時何か揺さぶられた記憶があります。
おみくじで、この札欲しいと念じて引きますとなんと、
念ずれば通じるのですね。この札が入ってました。
小早川隆景は、あえて亀山上皇の御宸筆を謹写拡大して楼門を造営してます。
後に、頼山陽が訪れた際、漢文では「降伏敵國」でないと意味が通じないと問いかけています。
現代の私達の「敵國降伏」から読み取ると漢文でいう「降伏敵國」と同じ解釈になりますね。
漢文で言う「敵國降伏」とは、「敵國が降伏する」となり、敵国が我が国の優れた徳の力によって、自ずから従うであろうという意味で、「王道」の表現で、
それに反して「降伏敵國」でしたら「敵國を降伏させる」となり武力で統一させる「覇道」の表現になるそうです。
明治に福本日南が「筑前志」で述べているそうです。
とっても深いですね。
もちろん、
小早川隆景は理解した上でこの楼門を造営してると思います。
亀山上皇の素晴らしい偉功を称え、隆景公が楼門の額に残したことは、後世の私達に投げかけているのでしょうね。感じ取らないといけないですね。
わたし、さらに
小早川隆景のこともっと知りたいと思いました。