現在の今私たちがいる広島で考えると少しばかり無理がある気がします。
バスセンターでバス降りて広島城の方へ向かって地下道潜ったら広島城。
これが私たちの広島城なんですよね。
おそらく浅野長晟は実際には京口門くぐった段階で広島城入城なんですよね。
もう少し時代を遡って想像してみようと思います。
毛利輝元が広島吉田の郡山から平城を作るのに、広島の地を見てどんな風に思ったんかな?
山城から平城へと変遷してる時とはいえ、
デルタ地帯で地盤が軟弱な絶対難工事は予想されるのに、
それでも一番広かった島の位置に広島城を建てました。
一番広かった島つまり広島そのものが広島城なんですよね。
今にして思えばこの位置のお陰で発展しました。
海路でいうと
平清盛が音戸の瀬戸をつくり安芸の宮島と広島湾を挟んでいわゆる海の関所ですよね。
さらにもう一つ尾道水道がらあり
陸路では
西国街道を福島正則がお城の南側に作ってしっかり監視できる形作ってるし、
とりわけ西からの監視は強固にしてたみたいです。
しかも福島正則は雲石街道も整備してます。
三次まで続く街道でさらに松江まで行けます。
徳川からの理不尽な私から言わせたら言いがかりで改易されるんですが、
一歩間違えれば広島は大阪夏の陣みたいになりかねなかったのをお城は守った上に武士らしく潔くお城を明け渡した福島氏は立派だったですね。
護国神社のすぐそばのこのところが福島正則が徳川から本丸だけ残して壊せといわれたのに対して少しばかり壊した石垣跡だと思います。
福島正則はわずか20年にも満たない19年しかいなかったのですが功績は大きいと思います。
福島正則のこともっと知らないといけないと思いました。
広島は海からも陸からも他藩からみたら無視できないって改めて思いました。
そんな芸州広島藩に入城した浅野長晟はじめ浅野氏家臣たちはどう思ったかな?
身が引き締まる感じしたんと違うかな?
毛利色から福島色に変えられたところへ浅野色に変えていかなくてはいけないし、人々の心も掴まないといけないしってところですよね。
250年続いた中にはかなり苦労もされたかな?
我がお殿様に何生意気言ってるんだろう。
お叱り受けそう!